『桜の園』に出てくる桜はどんな花?
Вишнёвый сад
『桜の園』というお芝居があります。
もともとロシアのチェーホフという作家が作った作品ですが、日本ではよく上演されます。
チェーホフの作品では、ほかに『三人姉妹』も有名です。
『桜の園』というのは、ある貴族の奥さんの話です。奥さんは田舎にお屋敷を持っていて、その庭は桜の木が並んでいます。
しかし、奥さんはだんだんお金が無くなっていって、昔のような豊かな暮らしができなくなりました。
この花咲くきれいなお屋敷も捨てなければならなくなります。
ところで、ここで出てくる「桜」。桜といえば日本の花で、寒いロシアのイメージとはあまり結びつきません。
ここで、一つの課題が生じます。「桜の園」の「桜」って、日本人のイメージするものとは違うんじゃないか?
そこで、日本語とロシア語の両方から比較・検討してみましょう。
日本人が4月にお花見するあの花は、正式には「ソメイヨシノ」といいます。学名はPrunus× yedonesisと言って、「yedo(江戸)」という言葉が入っている所からも、日本固有種ということが分かります。
なんでも、江戸時代に、園芸職人が人工交配して生み出した木のようで、自然発生したわけではないようです。しかしあとで植林が進み、今では日本でサクラといえば、まずこのソメイヨシノのことを指すようになりました。
一方、チェーホフの戯曲に出てくるのは、ロシア語で「ヴィーシニャ」というもの。
たいていの場合、「サクラ」という日本語が当てられますが、今回はそういった定訳は無視して、一からこの「ヴィーシニャ」という単語の訳について考えてみましょう。
ヴィーシニャの学名は、prunus。どうやら、サクラ属の植物の総称を言うようです。
つまりヴィーシニャとは、ヒカンザクラ、スミミザクラ、ヤマザクラ、ヒマラヤザクラなどなどを含めた「総称」です。その中には当然ソメイヨシノも含まれます。ソメイヨシノの学名はPrunus× yedonesisです。ここにもPrunusという言葉が入っているのは、ソメイヨシノがヴィーシニャの仲間の一つであるということを示しているのです。
しかし。
ヴィーシニャ=ソメイヨシノとは言えません。
これはあくまで、ヴィーシニャと呼ばれる植物の中に、ソメイヨシノが含まれているかもしれないというだけです。
ロシア人が「ヴィーシニャ」と言ったとき、もしかしたら、それがヤマザクラやヤエザクラのことを指しているかもしれないのです。
では、重要な問題に入ります。実際にチェーホフ自身が、何を念頭に置いて作品を書いたかです。
チェーホフがヴィーシニャという言葉の念頭に置いていたのは、一体どういう花でしょう。
少なくとも、作品の内容から言っても、それが灌木や茂みに咲く花ではなく、「木」であることは確かです。
ですが、やはりソメイヨシノは日本で江戸時代に人工交配から生まれた品種。
19世紀ロシアの、貴族の田舎の屋敷に、それがたくさん植えてあるとは考えられません。
そのため、チェーホフが想像していたのは、おそらくソメイヨシノよりも幹が細かったり、場合によってはサクランボの実を付けている、ヨーロッパ生育の品種なのではないでしょうか。
実際のところ、ロシアには「ヴィーシニャ」から作ったジャムもあるので、これが、サクランボやチェリーをはじめとする“実ザクラ”である可能性は十分あります。
この『桜の園』という戯曲、日本語では何度か翻訳されていて、本屋さんでも簡単に見つけられます。実は、その中には『さくらんぼ畑』というタイトルで訳されたものが一種類だけあります。
おそらく、日本とロシアで、サクラというものに対するイメージが違うことを考慮に入れて、このようなタイトルに翻訳したのかもしれません。
まとめると、「桜の園」というタイトルは誤訳ではないにしても、日本で定番のソメイヨシノとは違う種類の花だよ、となります。
では、チェーホフは日本のサクラのことを知らなかったのでしょうか?そういえば、チェーホフはいちど日本を訪れていたそうです。そのときに、サクラを見るチャンスはあったんでしょうか。これについてはもっと調べる必要があります。
* * *
そういえば有名な伝説で、アメリカ大統領のワシントンは、子供時代にお父さんの大事な桜の木を切ったという話があります。あの桜も、おそらく欧米に咲いている品種で、日本とは違うものだったのでしょう。
(文:市川透夫)
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