それは、ゴーゴリの『五月の夜、または身を投げた女』です。
この小説はずっと前にこのブログで紹介しましたが、私が個人的に翻訳し、絵本にした作品でもあります。
* * *
さて、翻訳という作業をしているとさまざまな困難にぶつかりますが、その一つに、「植物の名前をどう翻訳するか」という問題があります。
植物の名前というのは、ロシア語と日本語では一対一で対応していない場合が多いので、自分では正解だと思う訳をつけても、花に詳しい人から見れば違うということがあるのです。
仮にロシア人を相手に通訳するのであれば、「これはヤナギの一種です。ロシアで見るヤナギとはすこし違うと思いますが」といえばその場をしのげます。
ですが、これはあくまで緊急対処法にすぎません。文学作品や学術論文といった文章を翻訳をするとなると、「ヤナギの一種」ではなくて、きちんとした日本語訳をつけなければなりません。
つらいことに、ゴーゴリの「五月の夜」には、植物が頻出します。
ここでは、作品に出てくるサクラやその仲間にあたる植物を挙げます。
вишня(ヴィーシニャ) オウトウ
черешня(チェレーシニャ) セイヨウミザクラ、甘果オウトウ(ヨーロッパ産オウトウの一種)
черёмуха(チリョームハ) エゾノウワミズザクラ
右につけた和訳は、「岩波ロシア語辞典」によります。
やはり一対一対応してない可能性があるので、あまり露和辞典の訳に頼るのは心もとない気がします。
それに、「セイヨウミザクラ」ではなんだか説明的で、いかにも翻訳調という感じがするし、また読者にはイメージしづらい。
この物語において植物とは、ウクライナの夜の風景を美しく彩る大切な要素だと思うので、やはりポエティカルで、かつ分かりやすい翻訳にしたいと考えました。
そこで、前回「桜の園」でやったように、まず学名などを調べ、植物としての正確な分類を把握することから始めました。さらに、日本語としては、普段の生活でもなじみがあり、分かりやすい単語の中から、もっとも意味的に近く、訳としても無難(と思われる)ものをあてることにしました。
結果として、私はこのような形で翻訳することにしました。
вишня(ヴィーシニャ) サクラ
черешня(チェレーシニャ) サクランボ
черёмуха(チリョームハ) イヌザクラ
さて、ここで「イヌザクラ」については注意する必要があります。
学名を調べてまでして正確さに注意を払ったにも関わらず、ここで言わなければならないのは、「イヌザクラ」は正確とはいえないということです。
まずロシア語のチリョームハは、Prunus padusです。
チリョームハは、Prunus padusなのだから、素直にPrunus padusを日本語でなんというのか探せばいいのではないかという話になります。
ところが、Prunus padusを日本語にすると、「エゾノウワミズザクラ」というえらい長いものになります(上の露和辞典の訳は正確だったといえます)。エゾをとって「ウワミズザクラ」にしたらそれは別の種類になってしまうし、どちらにせよ七文字というのは長い気がする。「エゾノウワミズザクラ」を文章の中に入れてみると、なんだかリズムが良くない感じがする。
そこで、私は昔の人がどう訳したかを参考することにしました。昔の人とは誰かというと、明治時代のロシア文学翻訳家、二葉亭四迷です。
二葉亭四迷といえば、ロシアの小説を精密な逐語訳によって翻訳し、明治の文学界に新しい風を吹き込んだ人物。
二葉亭なら、明治時代らしい抒情豊かな日本語で、このチリョームハを翻訳したかもしれない。
そこで探してみると...
「犬桜」*
はて。
日本語のイヌザクラ(犬桜)はPrunus buergeriana。なんだかまた新しいものがでてきた。もしかして誤訳だろうか。しかし誤訳になるにしてもなっただけの理由がありそう。
そこで、ためしに、このイヌザクラの写真を探してみると...
写真で見たところ、「イヌザクラ」とは、桜に似た花が集まって、細長い房を作っていて、ぱっと咲いたところは華やか。六月には、サクランボより小さな実を結ぶ。
なんだか、ロシアの「チリョームハ」と似ているのです。
そして、私はチリョームハは「イヌザクラ」にしてしまいました。違うのは分かっているけれども、形がよく似ているし、第一に「二葉亭四迷が訳をつけた」という意味で、何らかの権威がある。何か指摘されたときは「でも二葉亭が...」と言い訳すれば済む(?)。
ちなみに、ここに挙がったサクラやその仲間の名称は、別に高度な専門用語ではなく、ロシアではごく一般的な植物です。街にも咲いていますし、スーパーにいけばジャムが売っています。
というわけで、「サクラ」をめぐる問題は、いったんここで考えるのをやめとしました。
――――
*二葉亭四迷は、同じくゴーゴリの書いた作品『むかしの人』の中で、この訳をあてています。『むかしの人』は、一般的には『昔気質の地主たち』というタイトルで翻訳されています。「五月の夜」と同じくウクライナを舞台にした物語です。
⦅追記⦆
やはりチリョームハの訳語として、「イヌザクラ」という別品種の名前をあてるのは間違いという考えが強くなりました。エゾノウワズミザクラが長くてダメなら、ここはひとつ、「房桜」「ジングル桜(?)」とか造語しちゃうのも手かもしれない。
(2018年3月20日)
(文:市川透夫)
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